Wed, 01/17/2007|思い出 阪神・淡路大震災
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1995年1月17日5時46分52秒。
今から12年前、当時私は21歳だった。
私は自立する為、母元を離れ父親の暮らす高石市に暮らすことになった。
母親は男と暮らしていた。当時はその男と殴り合いの喧嘩までしたこともあった。
一緒には住んでいられなかった。出て行くしかなかった。
父の居る高石に逃げ込むように暮らしたが、父親は女と暮らしていた。胸ぐら掴まれ大喧嘩したことが今では懐かしい。
どっちに転ぼうが私の居場所はなかったのだ。
16日の夜、バニが友達の家に居てた。
当時私はバニの友達とは連絡を取っていたが、バニとは17~18歳の時一緒に住んでいて、金を貸したが、裏切られバニは逃げたのだった。何年もしてから聞いた話だが、その後、猫のうんこを詰めた便せんを私の家に送ったらしいのだ。だが、幸いそれは知らない。私がお金を貸して、彼は返せなくなりちょうどその時期公団が当たったとかで永田から茨田大宮に引っ越した。それを機に私とは連絡を取っていなかったのだ。彼は人に貸したお金は千円だろうが、地を這うようにして追いかけ回し脅迫して殴ったりするが、自分が人から金を借りると、絶対返さないで逃げる習性があった。
この日はたまたま公衆電話から友達に電話したら、バニが来てるとのことだった。そっか邪魔しちゃ悪いなと思った時…。
「もしもし、久しぶりやなぁ~」とバニから話してくれた。
「おー、元気にしてたか」
5分くらい喋ったかなぁ。まさか私が高石に引っ越しする日にバニと3年振りに話するなんて夢にも思わなかった。一生縁がないと思っていた。凄い不思議な夜だった。
私は、最終の電車で高石に向かった。
明日から早速現場(建築の仕事)なんで、着いたばっかだが早く寝る事にした。
枕が変われば寝れないって、本当なんだな。緊張のあまり全然寝付けないどころか、ヘッドアレンジばかりしていた。
5時半過ぎ物凄い地響きと共に、爆発しそうなくらいに家が急に暴れ出した。
私は、ひたすら自分の部屋と父の寝ている部屋をウロチョロしていた。
凄い長い時間激震が走った。父は前から心臓の病を抱えているので、父親の心臓が爆発したのだと思ったが、父を見てたら起き上がってきたので違うと直ぐに悟る事ができた。じゃあの揺れはなんだったんだ?高石では毎晩起こることなのか?
すると親父は「こりゃ東京やなぁ」と言った。
「えっ?もしかして地震?」
「もう日本も終わりや」
全てはテレビを付けたら明らかになった。
一階は水屋が倒れ、中の皿が粉々になっていて破壊された炊事場化としていた。
一瞬大阪が心配になったが、私の住む大阪の市内はそんなに揺れなんだそうだ。
震源地は大阪より高石の方が明らかに距離はあるのだが、地盤のせいだろうか。
この地震が切っ掛けで、俺とバニの交流が新たに始まったのである。
去年の1月17日は何をしてたんだろう。
初めて外付けHDDを買った日だったな。
今打ってるMacのパソコンが届いた日だったな。
社会ではライブドア・ショックの日だったな。
宮崎勤の死刑が確定した日だったな。
宮崎さんちの勤くん~このごろなんかへんね どうしたのかな?なんて替え歌を流行らようとしてたときもあったなぁ。
追伸、
大阪の市内を初めて離れて他の場所で暮らすことになった日にとんでもないことが起きたので、私にとっても阪神・淡路大震災は特別な思い出があるのである。

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