Thu, 11/30/2006|未分類 冬は必ず春となる
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それにしても今まで色んな宗教に誘われました。
今の時代、宗教も和洋折衷?と言えば語弊があるかもしれないが、色んなオカルティックな新興宗教が流行ってたりする。
キリストや、カトリック、天理教に真言宗や浄土宗、その他諸々々。確かに説得力のある人の話は尽きないし、聞いているとすーっと心に浸透し関心してしまう。
ただ、感動というものに欠けている気がする。真実の宗教とは何ぞや?如何なるものなのか?癒されればそれでいいのか?ただ縋って拝むのは、強い心を持つこととはかけ離れている気がする。宗教とはそもそも宗(むね)の教(おし)えと書くのだから、拝むのではなく、強い意思を持って祈って行く事が本来の姿と言えるかも知れない。
年に一回神社に行って賽銭箱に銭を入れ、鈴を振るだけで成就出来たら仏道修行は必要ないのである。
かと言って、法華経全八巻二十八品を、理解しろと言われても無理がある。
あれらの書物は、釈迦が約50年かけて説いたものであるから、30過ぎそこそこの俺らに理解出来なくて当然な訳である。
日蓮さんのお手紙の中に、「冬は必ず春となる」ってのがある。
これまで冬が春にならなかったことなんて一度もないのと同じで、どんなに苦難なことがあろうがそれを乗り越えた人に幸福の扉が開かれない筈がないと云う意味が込められているみたいだが、私は日蓮の哲学的なる物が好きだったりする。
例えば、私の大好きな言葉に、桜梅桃李(おうばいとうり)というのがあります。
桜には桜、梅には梅、桃には桃、李には李と言ったようにそれぞれの良さがあり、個性があります。桜が梅には到底なることは不可能で、人間もそれと同じように人それぞれの良さがあり、個性があります。誰かの真似をしてもその人にはなりません。もっと自分の内面を見て、自分の良さ、個性を引き出し磨き、輝いて生きていくことが大切だという意味だそうです。
その他、声 仏事(ぶつじ)を為(な)すとかね。相手に伝えるのには会って話すと云う、大雑把に言えば宗教を流布する意味で言ってるのかもしれないけれど、
以前、女とセックスした日に創価学会の人が来て、「彼女に愛撫したら喘いでいました。声 仏事を為す。ってこのことでしょうか?」と日蓮の仰せを引用して、学会員を笑わせたことがあるw