Sat, 04/26/2008|クルタ クルタで院でねえかい?最終章 (無言の帰宅)
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一旦病院から帰って、シャワーを浴び、夕方の面会まで時間があったので少し寝ようとしていた13時半過ぎ、病院からおかんのケータイに電話が入る。
輸血中にクルタの心臓が停まったということで、おかんとタクシーで慌てて病院まで駆けつける。
病院に着いたら先生はクルタの心臓マッサージをしていた。もう自力で心臓を動かすことさえ出来ない状態に陥っていた。もういいですと言いたくなるくらい心臓マッサージをしていてくれていた。14時30分だった。その直後弟から「そうか。残念やなぁ けど、クルタ楽になったやろなぁ」とメールが入った。
その後担当先生から色々説明を受けた。野性の動物は周りが敵やから自分の弱い部分を見せないようにしているから、ずっとしんどくても隠す傾向にあるという。治療したら治るってことを知らないから、必死に限界までご飯食べて頑張っててんなぁ。
皆動物が死ぬと悲しいと云うが俺はそうではない。悲しくて悲しくて堪らない。もう二度と動物を飼うのはやめとこう。って言う人に限ってペットショップで犬を見かけたら「この子は私を呼んでいる」と、悪い言い方をすると錯覚に陥ったりするケースが非常に多いように見受けられる。
私も中学生のとき、公園で散歩しているおばあちゃんというかおばあさんを見かけ、どちらともなく座り、隣だったもんで話し掛けた。そんときに、犬ってかわいいものなのかと尋ねたことがある。あのときの俺は誰にでも話しかけ、結構社交的やってんなぁ。するとおばあさんは口を開いて、前に凄く大事にかわいがっていた犬が死んだ話をしだした。もう二度と飼うもんか。そう言っていた。十数年連れ添った犬が死んで物凄く悲しい思いをしたのだという。おばあさんの話す目の前で、おばあさんの飼っているマルチーズが2匹戯れていた。
しかし男性でペットが死んで悲しい気持ちになったという人は見掛けたことないなぁ。なんかぽか~んと何かが空っぽになったような寂しさが募るけど、悲しみはない。謂わば毎日触れ合ってたペットやったから空気みたいな存在で、なんていうか“俺とあいつ”みたいな関係。そやからその相棒のあいつが居ないと“俺と?”になって部屋一面寂しさで一杯になる。だけどその反面今までおってくれてよかったなぁと感謝への思いに変わってくる。そしてその相棒だったあいつは俺が生きている限り俺の心ん中で生き続けていく。
クルタ帰ってきたぞ。メロンが大好きだったクルタ。メロンを呼んで無言のクルタと対面。しかしゴロゴロと喜んでいるじゃないか!弟は楽になってよかったねって喜んでたんやなと言っていたが、あれは明らかに死に対する無知の領域だった。そのあとも悲しそうな顔をすることなくずーっとゴロゴロ喉を鳴らし、クルタにあげたご飯と水を、美味しそうに飲み食いしていた。メロンが大好きだったクルタ。メロンを一緒に棺に入れとくわな。あっごめんメロンまだ生きてるからそれは出来んらしい。せめてメロンの吐いたゲロでもと思っていたが、無理に吐かすと人工的なので無理だった。無理じしたったらあかんな。ああ見えてクルタは天然もんしか喰わない高級指向犬だったからなぁ。
めぐにも見せよってあっめぐは眼見えんのかw
夕方おかんは店を休む予定だったが、家に居てても仕方ないし、クルタので大部要ったから少しでも稼がないとと言って仕事に出掛けた。
18時半に用事終わった弟がクルタの最姿を見に来てくれた。楽になってよかったなと。
治療費のカンパまでしてくれた。今回は治療費でかなりおかんに負担掛かってるだろうから、俺も少しは出さないとと思った。
クルタよく頑張ったなぁ。あんだけおもしろかったのに、動けへんようになるんやなぁ。呼んだら眼開けそう。本当に開いたら俺が吃驚していんでまう。
今日は長野の街で北京五輪の聖火が灯っている。
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